以下は、『日本神学史』(ヨルダン社)136頁~138頁より引用。
小田切信男は神学教授でもなく、牧師でもない。平易なキリスト教書を書いたひとりの平信徒、職業上は医師であった。ここで彼に言及するのは、小田切が伝統的キリスト論に対して提起した素朴な問いが、日本のキリスト教界に、キリスト論に対する興味と関心を呼び起こしたからである。小田切信男は一九〇九年、北海道に生まれた。一九三四年、北海道大学医学部を卒業したが、開業医となったのは戦後のことである。彼は幼児から札幌独立キリスト教会日曜学校に通い、一九二七年受洗し、同教会のアクティヴな会員となった。一九四九年、札幌市YMCAの再建に協力していたとき、YMCAの目的条文に疑問を抱いた。そこには、「YMCAは、聖書に基づいてイエス・キリストを神とし救主として仰ぐ」と書いている。しかし、小田切には、聖書にイエス・キリストが、神だと書いてあるとは思えなかったのである。もっとも彼の問いは、聖書にどう書いてあるかということだけではなかった。彼によるとキリスト教の中心は、イエス・キリストが、我々の罪のために十字架上に死んだという告知であり、キリスト教的信仰とは、なによりもまずこの告知を受け入れ信ずることなのである。彼はそう確信していた。しかるに、神が十字架上で死ぬわけはない。もし神が十字架上で死んだとしたら、実はそれは単なる演技にすぎない。そのような考え方は福音を虚しくするものである。小田切はYMCAの目的条文を知ったとき、このように考えたのであった。
小田切は、みずからの疑問を整理し、つきとめた結果、イエス・キリストは神ではなく神の子だ、と主張するようになる。この主張は、一面では、たしかに聖書主義(Biblizismus)的だった。小田切は、聖書にはイエスは神だとも書いてないし、イエスを第二位格の神とする三位一体論も聖書のなかには見いだせないという。だから彼は、我々は「聖書に基づいて」それらを受け入れることはできない、という。しかし、彼の主張は、単に聖書主義的に基礎付けられていたのではなかった。そうではなく、なによりも、もしイエスが神だったら、十字架上の彼の死は神の演技になってしまう、ということだったのである。受肉し、死んで甦ったのは、神ではなく、あくまでも神の子だ、聖書は此の点で一貫している、と彼はいう。
小田切のキリスト論は、はじめYMCA内部での議論であったが、小田切は、この問題が学問的レヴェルで公に論じられるようになることを望み、一九五二年上京して東京都内に医院を開設し、開業医として働きながら、キリスト論研究と討議の場をつくろうと試みた。他方、彼は日本YMCAの機関誌上で北森嘉蔵らと公開論争をおこなった(一九五五)。北森の「神の痛み」は当然、三位の神の区別と一を要求するから、北森は小田切に批判的であった。さらに北森は「イエス・キリストは神である」ことには聖書的根拠があることをも認めた。しかし、小田切は北森の批判を受け入れず、北森に反批判をおこなってその主張を固持し続けた。小田切は一九六〇年、北ドイツ・ミッションの招きで渡独し、ハンブルク大学で講演を行ない、出席した神学教授達と討論をおこなった。
彼は多くの神学者の協力を得て、すでに一九五七年にキリスト論研究会を組織していたが、ドイツから帰ると、キリスト論講演会を活発に開催するようになり、著名な神学者を招いて、各方面からキリスト論の検討をおこなった。この講演会は『キリスト論の研究』(一九六八)に結実する。それぞれの講演を文書化して、この本に寄稿した講演者の数は二〇人以上に及び、その中には、本書の執筆者および本章と次章で、言及される神学者の大部分が含まれている。小田切をアリウス主義者であるとして批判する者も少なくなかったが、小田切が日本の神学界に、キリスト論に対する強い関心を惹き起こしたことは事実である。
滝沢克己については以下にも言及するが、思うに、小田切のキリスト論は、何よりもまず滝沢のキリスト論と対話に入るべきだったのだ。そうすれば、ロゴスとキリストとイエスの関係について、新しい展望が開けたであろう。実は私自身、小田切に何度も滝沢のキリスト論を顧慮するように勧めたのである。滝沢は『キリスト論の研究』に寄稿しているが、小田切と滝沢は、相互に理解も関心も持つにはいたらなかった。