北森嘉蔵「キリストは神か」を読みて

          ― 小田切氏の所説をめぐつて(承前) ―   北森嘉蔵

以下は、日本基督教青年会同盟発行の『開拓者』誌(1956.1)に掲載された北森嘉蔵氏の文章を写し書きしたものです。ルビや傍点までは写していません。明らかに誤字と思われるものは修正しました。特に原文では「先だつて」の「つ」のように小文字になるべき字が大文字表記されていますが、後半は修正しました。なお次号の掲載分までは写せませんでした。

 

 

(引用開始)

 

問題の核心に入るに先立つて、一つの前提について述べておかねばならない。それは、小田切氏と私とが一致している点は何処までであるか、ということである。イエス・キリストは「神の子」であり、「神の子」は「父なる神」とは異る。――ここまでは小田切氏と私とは一致している。従つて、私に対する反論として小田切氏が提出される次の二点は無意味である。
1 小田切氏は「ひとり子なる神」というヨハネ伝一・一八のテキスト(詳細については後述)の意義を抹殺しようとして、ヨハネ伝二〇・三一、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」という言葉を提出される(二四 ― 二五頁)。小田切氏によれば、これがヨハネ伝の「目的」であり、その「目的」はイエスを「神の子」として示すことである故に、「ひとり子」を「神」とする一・一八のあるテキストは、その意義を奪い去られるという議論である。しかしこの議論は無意味である。私もまたヨハネ伝の目的がイエスを「神の子」として示す所にあるということについては、小田切氏と全く同意見だからである。問題はその先にあるのである。ヨハネ伝が目的として示す「神の子」イエスが「神」であるかないかということである。
2 もう一つ私に対する反論で無意味なのは、次のような小田切氏の言葉である。―― 「なぜなら、イエスは『私は父である』とも『父は私である』ともいわれなかつたからであります。父は父であつて子ではなく、子は子であつて父ではないからであります」(二六頁)。私は未だかつて一度も「キリストは父なる神である」とも「父なる神はキリストである」ともいつたことはない。この点は小田切氏自身も認めておられる。「北森教授は、イエスは子なる神であり、父と子とはいづれも神であるが、二つの存在様式は混同されてはならない、受肉し受難し給うたのは、父なる神ではなく、子なる神であると申しておられますが・・・・」(四六頁、拙稿『小田切博士の問題をめぐつて』二〇頁)。従つてもし前の方の引用文(二六頁)が私に向つての反論であるなら、後の方の引用文(四六頁)とは無関係であるから、そこには議論の混線があり、反論は無意味となる。問題はその先にあるのである。父なる神とは区別される存在である「神の子」イエスが、父と一つである(ヨハネ伝一〇・三〇)ということは、どのような意味であるのか。これは「みんなの者が一つとなる」(同一七・二一)というのと全く同じ意味にすぎないのか。(ちょうど、イエスが「神性者」であるのとキリスト者が「神性者」であるのが、同じ意味にすぎないのか〔三四 ― 三五頁〕と、問われねばならないように)。
 
これから問題の核心に入つて行かねばならない。
一 私が提出した二つのテキスト ―― ヨハネ伝一・一八と使徒行伝二〇・二八とは、小田切氏の処理にもかかわらず、依然としてその決定的な意義を保持している。先ずヨハネ伝一・一八の「ひとり子なる神」について、小田切氏は「テキストによつてはただ『ひとり子』とのみなつていてその下の『神を』欠くものがある・・・」といつておられるが、これでは何ら決定的な解決とはなつていない。「テキストによつては」というような相対的な論拠で、このテキストの意義を抹殺しようとするのは、乱暴である。テキストによつては、「ひとり子」の下に「神」が記されているからである。しかもその「テキスト」たるやシナイ写本を始めとしてそれぞれに重要なテキストである。自分の主張に都合のよいテキストだけを取り上げて都合の悪いテキスト(しかも権威あるテキスト)を無視するのでは何ら生産的な論議とはならない。またこの箇所をヨハネ二〇・三一のいわゆる「目的」と結びつけてその意義を抹殺しようとする議論(二四 ― 二五頁)が無意味であることは、すでに述べた通りである。―― 同様に使徒行伝二〇・二八の「神」についても、小田切氏は、「『神』が『主』となつている、テキストもある・・・」(四〇頁)といつておられるが、これも解決とはならない。シナイ写本その他のテキストでは、「神」となつているからである。
二 この関連において小田切氏に問わねばならないことは、次のようなことである。小田切氏は、神の子イエス・キリストが神であるという信仰は、福音を危うくするものだといわれる。それならばヨハネ伝一・一八と使徒行伝二〇・二八とは、「福音を危うくする」ものなのだろうか。聖書自身が「福音を危うくするもの」を含んでいるのだろうか。小田切氏の主張のように、聖書は全体としては、イエスを神とする信仰に立つていないと仮定して、その聖書が「福音を危うくするもの」としてのこのようなテキストを含んでいるとでもいうのであろうか。もし小田切氏の主張のように、イエスが神であるという信仰が聖書の福音と根本的に矛盾するならば、聖書はこのようなテキストを即座に除き去るはずではなかろうか。更に小田切氏の主張のように、あるテキストはこのような形をとらず、あるテキストがこのような形をとつているとしても、もし後者が聖書の福音と根本的に矛盾するのであるなら、聖書はそのようなテキストを即座に除き去るはずではなかろうか。―― このようなテキストが存在しているということは、それが聖書の福音と調和しているためではないか。それが聖書の福音と矛盾するならば、このようなテキストが存在することは許されないはずではないか。
三 そこで一つの決定的なことがらが明らかとなる。神の子キリストが神であるというテキストが、聖書の中にあの二つの形において存在するということは、その信仰的立場を聖書が自明的なこととして前提していることを示すのではなかろうか、ということである。神の子が神であることが、自明的に認められているが故に、わざわざ「神の子は神である」という言葉を頻繁に語る必要がないのである。ちょうど、「人間の子は人間である」ということが自明的である故に、誰もわざわざこの言葉を取り立てて語らないようなものである。逆に、もし「人間の子は犬である」というような言葉が、(ある「テキスト」に!)書かれていたなら、われわれは即座にそのような「テキスト」を除き去るであろう。ところが小田切氏の立場からすれば、「神の子は神である」という言葉は、「人間の子は犬である」という言葉以上に、奇妙にして危険な言葉であるはずである。それなら、聖書はそのような言葉を、どうして聖書の中に存在せしめておくことができようか!「神の子は神である」という信仰を表明した言葉が聖書の中に存在していることは、この信仰こそ聖書の福音の本来的にして自明的な立場であることを、示しているのである。―― 従って小田切氏のように、顕微鏡ででも探し求めるように「神の子は神である」という言葉を聖書の中に探し求めるのは、本末転倒の態度ではなかろうか。「人間の子は人間である」という自明の真理が支配している世界では「人間の子は人間である」と語っている言葉を探し求めるのは、無意味である。同様に、「神の子は神である」という真理が支配している聖書の中で、「神の子は神である」と語っている言葉だけを探し求めるのは、無意味である。語る必要がないほどに決定的となっている真理は、言葉以上のものである。但し、この自明的な真理が言葉として表明されることはあり得るし、それが存在するケイスは、真理のテストとして重要である。そのような意味をもつのがあの二個所のテキストである。
四 小田切氏は、一つのことを、なすべくして、未だなしておられない。それは、「神の子は神ではない」と語っている聖書の言葉を示すことである。この事をなさずしては、小田切氏の主張は、砂の上に建てられた家のように脆弱なものといわれねばならない。小田切氏の切り札は、いつも、「キリストは神の子である、従って神ではない」という議論であるが、しかし「キリストは神の子である」という所までは私も全く一致するから議論にならないが、「従って神ではない」という主張は未だかつて一度も「聖書に基づいて」証明されたことはないのである。「キリストは神ではない」「神の子は神ではない」と語っている聖書の言葉を、小田切氏は示す責任がある(マルコ伝一〇・一八などは全く別個の意味をもつテキストであって、この関連において取り上げられるものではない)。
五 小田切氏に対して問われねばならない更に重大なことは、小田切氏の主張は偶像礼拝になるのではないか、ということである。偶像礼拝とは、神でないものを神と等しいかのように見る態度である。―― ところで、新約聖書全体において、イエス・キリストに対しては、神に対してでなければ取られ得ないような徹底的な信仰と礼拝との態度が取られている。例えば、「わたしが切実な思いで待ち望むことは、・・・・生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ一・二〇、二一)。このパウロの態度は、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)という、神にのみささげられるべき態度ではなかろうか。もしキリストが神でないならば、従って被造者であるならば、(神でないものは、被造者以外のものではあり得ない)、この被造者に対するこのようなパウロの態度は、明らかに第一誡と第二誡とを犯す罪となるであろう。また次のような聖書の言葉は、どのように判断されるであろうか。「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが世々限りなくあるように」(ヨハネ黙示録五・一三)。「御座にいますかた」は、明らかに神である。「小羊」は明らかにキリストである。神と並んでキリストが、世々限りなく栄光を帰せられるというのである。もしキリストが神でなく、従って被造者であるならば、神と並んで被造者をこのように崇めることは、これまた明らかに第一誡(汝われと並びて他の何ものをも神とすべからず)を破ることではないか。
六 小田切氏にとっては、「神の子」キリストは結局何者なのだろうか。おそらく、神ではないが、永遠性をもつ(四六頁)ところの「神性者」(二五、三四、三五頁)ということになるのであろう。しかしこのような存在者こそ、まさに偶像ではないか。一たい神でないものが、永遠者であるのだろうか。小田切氏が「神性者」というとき、それは「キリスト者もまた神性者とされるものである」ということと、質的には異らないように見える。(三四 ― 三五頁)。キリスト者と程度的にしか異らないような「神性者」を「永遠者」として崇拝することは、偶像礼拝ではなかろうか。
七 しかし私にとって小田切氏の主張が決定的に重大となるのはキリストの十字架が神の自己犠牲であることを否定されることである。神の自己犠牲が成り立たないという小田切氏の論点は、神がもし自己を犠牲にするなら、その犠性を受け取る者がいなくなるという点にあるようである(五五頁)。しかしこれは全く私の論点を逸している。自己が、自己の最愛の対象を放棄するとき、これをこそわれわれは自己犠牲と呼ぶのではないか。私がキリストの十字架において神の自己犠牲を見るのは、この意味においてである。自己が自己を犠牲とするなら、その犠性を受けとる者がいなくなる、というような議論は、全くナンセンスである。小田切氏は、自己が自己自身を犠性にすること以外に、自己犠牲を考え得ないのであろうか。父が最愛の子を犠性にすることを、「自己犠牲」と呼ばないのであろうか。むしろ、自己自身よりも、自己の愛の対象を犠性にすることの方が、更に大きな悲痛ではないか――問題は、ここに犠性とされる存在者が、神とは全く異るもの(被造者)である場合、そのようなものが神にとって最愛の対象であり得るか、ということである。父と本質を同じくする子であるからこそ、その子は父にとって最愛の対象なのである(マタイ三・一七参照)。そうでなければ、犠性とされる存在者は神にとって全くの他者となってしまい、従って犠性も他者犠性にすぎなくなるのである。旧約時代の犠性はことごとくこのようなものであった。羊や小牛という他のものが、犠性として人間から神にささげられたのである。新約における決定的な飛躍は、このような他者犠性的宗教が自己犠牲の福音に変ったということである。今や神は下から人間から犠性をささげさせるのではなく、自ら人間のために犠性を払いたもうに至ったのである。今や羊や小牛という他者ではなく、独り子が犠性とされたもうのである。しかしもしこの独り子が父なる神と全く別の他者であるなら、それは羊や小牛と質的には異らないものとなるであろう。たとい永遠の神性者であるといわれ子といわれようとも、神にとって他者たることは、羊や小牛と異らない。これでは、新約の福音は再び旧約の犠性宗教へと逆戻りすることになるであろう。神の恵みを空しくすること、これより甚だしきはないのである。「福音を危うくする」のは、まさにこのような考え方である。―― 「教授のいわれるような父なる神、子なる神といった神々の家庭ではありませんでした」(四六 ― 四七頁、傍点引用者)というような言葉は、不愉快以上に不敬虔な響きをもつ。
八 主要な点は以上で大体述べ終ったと思うが、ついでに少し附け加えておきたい。私は『小田切博士の問題をめぐって』と題する第一文書において、次のように述べておいた、― 「聖書は、人が神となることをいかなる意味においても認めておらず、たとえ人なるイエスについても、このような命題は成立しない。成り立ち得る唯一の命題は『神が人と成る』という事である」。そしてその後で聖書に基づいて「その人間存在たる受肉者が、明白に『神』として告白されている」ことを論じた。―― ところがこれをとらえて小田切氏は、「神になれないというイエス・キリストが忽ち神になってしまっているのであります」(三九頁)といわれる。これはまことに恐れ入った議論である。私は未だかつて一度も「人なるイエスが神に成る」などといったことはない。ましてや、「人となった以上は神になれない」(四〇頁)などといったことはない。人が神と成ることが如何なる意味でも認められない、ということを、「たとえ人なるイエスについても」同様であると私が論じたのは、自由主義者のように、イエスを単なる宗教的天才や半神的存在と考える場合を、念頭においていたのである。そのような「人」にすぎないイエスが、次第に高められて神に成るというようなことは、聖書が絶対に認めないことであると、論じたのである。
九 最後に、小田切氏は「聖書に基づく」ことを標榜されるが、実は案外自己の理性に基づく判断を混入させておられるのではないか、ということを問いたい。例えば、イエス・キリストは、「人であるからこそ『死』を死んだのである。神でないから『死』にえたのである」(三頁)というような論議は、聖書に基づく前に、小田切氏自身の理性乃至は常識に基づいているのではないか。「神でないから死に得る」という主張は、聖書に基づいて論ぜられるよりも、小田切氏自身の「神」についての理性的乃至常識的判断に基づいているのである。理性や常識では、「死に得る人間イエス」が神であるなどということは、あり得ないはずのことであろう。しかし聖書の示す福音は、この「あり得ないはずのこと」が事実起こったという告知なのである。それなればこそ聖書の福音は、秘義なのである。小田切氏の主張は、自己の理性乃至常識に基づいて、この「秘義」を抹消し去る企ではなかろうか。(以下次号)
  

 

 

 

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)