●小田切氏と天皇制
最後に小田切氏の天皇制に関する議論をみます。小田切氏の日本社会に於ける異教の問題は、小田切氏の天皇制に対する考え方にも関連します。
小田切氏は「天皇という一人格と、天皇制とはハッキリ区別して考えねばならぬことだと思います。」(『キリスト論・ドイツの旅』(p115)とあるとおり、日本の歴史に於いて天皇制という制度に伴う諸問題と天皇への尊敬とを区別し、皇室を重んじる人でした。そうとは知らなかった私は、小田切氏の著書に『キリスト者と天皇制』という題のものがあることを知って、小田切氏が神とキリストとの区別にこだわる背景には日本の神道的宗教性への反発があり、昭和の戦時中の国家神道的天皇観に対しても批判的見解を持っておられるのだろうと思って、この著書を読みました。ところが、その私の予想は完全にハズレました。たしかに日本の神道的宗教性を含む異教に対する厳しい眼は他の著書でも見られるとおりですが、戦死者を英霊とか軍神として祀った国家神道を「必要悪」として肯定しておられたのです。私が目にして一発でノックアウトされたのはこの一文でした。
<「天皇崇拝と軍国主義を結合した国家神道」はまさに日本の生きる知恵でもあった。日本が亡国の悲運に陥らないために「天皇崇拝と軍国主義」に結合したものは、決して宗教(国家神道)のみではなかった。一切が結合したのである。それは時代的には非難される「悪」ではなかった。>(『キリスト者と天皇制』〔創文社〕p169)
私は、小田切氏には批評家のような歴史の客観的分析を期待する者ではなく、あのキリスト教正統主義を相手にして正面から大胆に斬り込んで行った迫力でもって、少々、過激でもよいからキリスト者の立場から「国家神道」というものを厳しく批判してくれることを期待したのです。これが全くの肩すかしでした。でも自分の考えと違うからといって済ませるわけにはゆきません。これも小田切氏の福音論と無関係ではないからです。そして小田切氏の天皇観や国家観がその福音論全体の歴史的意義を少しも減ずるものでもありません。
天皇制については明治憲法下のそれも含めて擁護する発言があります。
<天皇制を論ずるなら、幕末時に日本を亡国の悲運から救ったのが天皇制(立憲君主制)の確立にあったこと、また明治天皇の時代の二度にわたる興亡の試練に、挙国一致により勝ち抜くことのできたのも天皇制によることについて正視すべきである。(中略)天皇制は危機の迫った小島国家の「生きぬくための知恵」であったことが理解されよう。>(同、p146)〕)
時代状況や家庭環境の影響を言い出せばそれまでですが、小田切氏と同様、キリスト教の正統的立場とは異なる宗教思想を説いた、元・九大の哲学教授の滝沢克己という人がおりました。小田切氏と同じ明治42(1909)年生まれで、没年も2年しか違わないというこの滝沢氏も、やはり天皇制や国体については保守的な立場だったようです。滝沢氏は全共闘の一部の若者に影響を与えたといわれているので、国家観についての保守的な面は意外に感じました。おそらく全共闘の若者の中にも、滝沢氏のそういう顔をよく知らぬまま左翼系知識人くらいに誤解した人もいたことでしょう。小田切氏と滝沢氏は出会ったことはなかったでしょうが、明治時代に生れた者同志、皇室への愛着は共有していたということでしょうか。別に私も皇室を重んじることが悪いとか言うつもりはないわけです。問題はキリスト者としての実存との関係で、小田切氏にとって天皇はいかなる存在だったのかということです。
小田切氏の所謂「福音論争」と呼ばれる活動は北森嘉蔵氏だけが論敵ではなく、藤原藤男という牧師の介入もありました。その藤原牧師への批判を通して小田切氏の天皇観が見えてきます。
<少年の頃、神社問題が喧しく討議されたことがあります。帝室林野局の官吏であった父は、陛下を敬い、自らは皇室中心主義者をもって任じ、よく陛下並びに御皇族の為に祈りを捧げたものであります。しかし父は、団体で神社参拝に出かける時のために、よく次のように語ったものであります。神社における敬礼は、ちょうど朝起きて両親に、おはようございますといって頭を下げるように挨拶すればよいので、他の人のように、神がいますと考えて礼拝する必要はないのだ、と。この父の言葉により少年の私は、神社参拝の時も心に葛藤を覚えず敬礼することができたのであります。>(『福音論争とキリスト論』p174)
<私は幼い時からの習慣と私なりの見解に従い、陛下を尊ぶものであります。時に帝王の道の難きを想像し、陛下の終戦時の決断に謝するものであります。しかしそれでも氏のように、神に対して或は神の子に対してとる礼拝態度をもって、陛下に対したことは、戦時においてすらなかったのであります。軍務に服していた折も、ひれ伏し拝すが如きことは、ただの一度もなかったのであります。礼拝問題をきびしくとりあげる牧師としての藤原氏は、その時の心境を冷静に反省し、他の非難に自らへの非難を先んずる必要があるのではありますまいか。当時、現人神(いわば真の神にして真の人)という表現を用いて天皇を敬うということは、必ずしも宗教的に拝する、神として拝するといったことを意味しなかったのであります。神は上で、おかみと呼び、国の至上者を意味しておりました。しかるに氏は、当時の一般の日本人にすら見られなかった、激しい宗教的礼拝態度を、牧師の身をもって自ら敢てとったということは、何といっても度を過ぎた行為といわねばなりません――たとえ事局にどんなに昂奮したとしても。事、ここに至って、聖書のキリストに代る存在であったのではありますまいか。否、キリスト礼拝すら偶像崇拝と宣言する氏には、天皇は更に大いなる真の「神」に他ならなかったのではありますまいか。すなわち、そのなすところを見るに、狂信の神道者と見ても、キリストの僕、牧師の肩書きある人とは認め難いのであります。(中略)氏のひれ伏した所が、ところもあろうに、人に誤解されやすい二重橋前でありました。(中略)しかし場所がよくありませんでした。みる人が見れば、氏のいう上帝の方を認めず、天皇礼拝しか見ないことでありましょう。(中略)氏が、「キリストは神である」と言えば、どこかに「天皇は神である」が、まだ隠れているかのようにさえ思われるのであります。なぜなら、氏は明らかに「大東亜が(中略)日本天皇において一つとなることである(中略)」(中略)と主張して、キリストの場に天皇が立っておられるからであります。(中略)氏は、内村先生の崇拝者であり、いろいろ先生の真似をなさるようであります。(中略)しかし、愛国者内村先生は、不敬漢といわれたくらいに、天皇の言葉なる勅語に―‐氏の論法によれば天皇御自身である勅語に、頭を下げて礼拝は致しませんでした。愛国者なる氏に真似してほしかったのはこの内村先生の態度であります。内村先生は、果して、氏のような天皇礼拝者が、先生の崇拝者、物真似者なることを喜ぶかどうか、「僕は知らない」のであります。>(同、p175~179)
<「キリストは神である」の著者藤原氏は、戦時、多くの同僚の牧師達が、憲兵の愚かな訊問により、天皇神性論に反対せざるを得ぬような術策に陥れられ(米田・高山著「昭和の宗教弾圧」<戦時ホーリネス受難記>参照)、続々として投獄されたという時代に、自ら進んで、軍刀を手挟み、闊歩しあるき、あたかも「天皇は神である」と告白するかの如く、皇居前に土下座し、ひれ伏し、真のプロスクネオとラトレウオの態度――宗教的礼拝の態度――をとったのであります。これが、いまは、「神」のみを拝せよと高く叫ぶ藤原氏の礼拝節操の真相でありました。>(『キリスト論・ドイツの旅』p279)※「プロスクネオー」も「ラトレウオー」も共に「礼拝する」の意味を持つギリシャ語動詞。前者は人に対する場合にも用いられるが(使徒10:25)、原則として神または超自然的存在に対して用いられた(~織田昭著『新約聖書ギリシア小辞典』〔教文館〕)。
小田切氏は、「神に対して或は神の子に対してとる礼拝態度をもって、陛下に対したことは、戦時においてすらなかった」、「軍務に服していた折も、ひれ伏し拝すが如きことは、ただの一度もなかった」と述べておられます。戦時中の日本人キリスト者は神社「参拝」を天皇「礼拝」と認めずに行なうための論理も必要だったのではありましょう。まして牧師ともなると大いなるジレンマを抱えて苦悩することもあったと推察します。しかしこの藤原という牧師は普通の牧師とはかなり違っていたようで、私見ではどうやら海老名弾正が説いた国粋主義的「日本的キリスト教」に傾倒していたようです。
<藤原氏は、戦時にこう書きました。「脇目もふらずに二重橋前に進み、帽をとり、外套を脱ぎ、砂利の上に土下座してひれ伏した」と(五二頁)。好意をもって評すれば、時局に昂奮して夢中になった感激の人、悪しく評せば、時局便乗の軍国牧師であります。氏の土下座してひれ伏した態度は、神を礼拝する態度でないといえるでありましょうか。そして、氏にとって荒野といえる二重橋前で氏は、氏の中なるサタンの試みに負けたものというべきでありましょうか。そしてこの二重橋は、決して氏のゲッセマネではなかったのであります。もし氏が、神の子イエスを救主と仰ぎ、贖主として礼拝する態度を、偶像礼拝だときめつけますならば、氏の土下座して、ひれ伏した天皇礼拝の態度が、偶像礼拝でないと、果して断言できるものでしょうか。異端よりも恐しい罪は、実は氏の外にあったのではなく――ここにおいては、実に氏自身にあったのであります。>(『福音論争とキリスト論』p174~175)
このように小田切氏は厳しく藤原氏を批判しておられますが、前の引用文にあるとおり「天皇を敬うということは、必ずしも宗教的に拝する、神として拝するといったことを意味しなかった」とも述べておられます。
小田切氏にとっての天皇制は日本の近代化にとって欠くべからざるものでありました。<明治時代に島国日本が亡国を免れ、独立して生きるためには、全国民の一致団結を必要とした。一致して生きるか一致して死ぬかが日本の問題であった。それゆえ、必然的に軍事力の増大と富国が要請され、一切が「富国強兵」に結集された。二百六十余藩から、それを結合して真の「日本」が成立したときは、もう遅すぎた観があった。民心の一致として「天皇崇拝」と国の独立を守る「軍国日本」の心意気が生まれ、そのために政治に経済に、宗教に教育に、哲学も文学も芸術も一切をその方向に向けて一致し、結束し、奉仕したことは当然なことであった。生と死の境地に立って生を否定するものを排除するための一切は――悪さえ「必要悪」として許されるのではないか。まして「天皇崇拝と軍国主義を結合した国家神道」はまさに日本の生きる知恵でもあった。日本が亡国の悲運に陥らないために「天皇崇拝と軍国主義」に結合したものは、決して宗教(国家神道)のみではなかった。一切が結合したのである。それは時代的には非難される「悪」ではなかった。国家、民族が生きぬくためには個人倫理を基準にすることはできない。国家、民族の死を超えて生きる道は個人倫理からみて「悪」ならば「必要悪」であり、「善」なら「必要善」というべきである。>(『キリスト者と天皇制』〔創文社〕p169)
これは冒頭で私がノックアウトされた小田切氏の言葉として挙げた文に続く前段の一文です。このような小田切氏の考え方は、御家庭が天皇を尊ぶ環境であったことも大きな理由でしょうし、当時の教育による影響もあるのでしょう。国家神道を含めた大政翼賛体制が「必要悪」であったと述べておられることには正直、驚きです。しかしそれは当時の状況を実際に生きた人の言葉であり、私などにはわからないことが多いことをわきまえて、そういうことも言えるのだろうと思いながら読んだ次第です。小田切氏に期待されることは戦後の民主主義社会に生きるキリスト者の立場から省みてどうかということです。その点では小田切氏も、<現代は現代としての「日本の慧知」が要請するものをもって生きなければならない。>(同)と結んでおられ、後述のとおり民主主義社会を肯定的に評価しておられます。
私自身は小田切氏が批判しておられる村上重良氏の『国家神道』(岩波新書)に共感し、学ぶことが多くありました。
クェーカー信徒の前田多門は1945年12月に、天皇は西欧的概念としての「神」ではないが世の最高位という意味で「神」であると答弁したとのことで(~同上)、戦時中のキリスト教徒の多くは「天皇=現人神」と聖書的神信仰とを矛盾せず持ち得るために「神」概念を区別していたのでしょう。小田切家もそうだったようです。
小田切氏は、「現人神という表現を用いて天皇を敬うということは、必ずしも宗教的に拝する、神として拝するといったことを意味しなかった」と述べておられる一方で、ハンブルク大学の講演での質疑応答では、<天皇が亡くなられた時には「神」になった、「神去りました」といい、神霊的存在としてゴッド(神)的性格をもつにいたったことは当然なことと存じます。>と述べておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p128)。すなわち天皇は、生前は「ゴッド」のような意味での「神」ではなかったが、死後には「ゴッド」的性格を与えられたということです。死後であれ、一個人が絶対者的意味で神格化されたということは、それも明治神宮などのように拝む対象としての影響を持ち続けるわけであり、これをキリスト者として偶像崇拝と言わずして何と言うかと思います。
さて、国家神道を「必要悪」の内に包み込んだ小田切氏でありますが、その「必要」がなくなった終戦時において小田切氏は天皇についてどのような観方を示しておられるでしょうか?
<陛下は軍人、政治家を含む全国民の一人も犠性にしてはならないと言って「唯一人の責任」を主張し、マッカーサー元帥と対論されたことが考えられる。面会時間十五分の約束が三十五分にもなったということは、そしてその後のマ元帥の発言からみて、陛下の「責任一人論」が陛下の生命を賭した強烈なものであったことが考えられる。死を決しての主張、まさにその内容をなす責任倫理(内外に対する)は私の主張する「臨終の倫理」と表現すべきもので、陛下のうちなる「善きもの」が火花となって敗戦の夜空を彩りかざったかにみえる。これはまさに帝王の道である。イエス・キリストについて大祭司カヤパが語った「ひとりの人が人民に代わって死んで、全国民が滅びないように――」(ヨハネ一一・五〇)が思い出される。>(『キリスト者と天皇制』〔創文社〕p125)
天皇が全国民を守るために処刑覚悟でマッカーサーに交渉したという観方は、天皇の戦争責任を否定する立場からはよく云われることですが、その天皇の言動をキリストに関連付けておられることには驚かされます。
また、天皇の「人間宣言」については以下のとおりです。少し長いですが、小田切氏の思想を知る上で重要なので引用します。
<私はあの言葉ほど馬鹿馬鹿しい言葉はないと思っております。だいいち、天皇の人間宣言というようなことは、戦後の日本が余儀なくされた一つの対外的ジェスチヤーに他ならなかったからであります。このように申しますのは、日本の天皇で「私は人間でなく神だ」と宣言した天皇はただの一人も居なかったからであります。たとえ、明治天皇にしても、ご自分を神として、あるいは、また、神の如くに宣言したことは一度もなかったのであります。日本が明治の新しい時代を迎えたとき、日本は、天皇中心に国家的団結を強化して、新興国家を建設したのであります。そして、それ以来、ある右翼の思想家は天皇を「あらひと神」(現人神)――まことの人にして、まことの神――と表現し、民族主義精神を鼓吹して、人心の統一に役立たしめ、西欧の東漸勢力に対決してきたのであります。それは、決して、天皇が自らを「神」として宣言したということではないのであります。(中略)とくに、優れた天皇とか、英雄であるとか、学者であるとか、聖人であるとか、優れた将軍であるとかという人々は、死ぬと一応日本人全体の神として祭られることは、日本においては珍しいことではありません。国家に勲功のあった戦死者が、「神」として、靖国神社に祭られることは、それゆえ、当然なことなのであります。しかし、ヨーロッパの人々が、そのような日本人の思想を考える時に、日本人の用いる神がゴットと考えますと、非常な誤りを犯すことになるのであります。(中略)天皇が「神」であるという時、Gottという理解よりは、日本民族の一番「上」にいます方、すなわち、かみにいます方という意味に考えるべきであります。それでも、日本においては、「神」という言葉は軽卒に用いてはいないのであります。なぜなら、神は一応西欧のゴット(ゴッド)の訳になっているからであります。しかし、ここに誤解の源泉があるわけであります。要するに戦後において、天皇が自ら「神」たる資格を否定して人間宣言をした、というようなことを、神をそのままGottと解するならとんでもないことなのであります。外国の方々が、このことで誤解し、日本では天皇が「私は神だ」と言い、日本人はみな天皇を神として礼拝していた原始的な民族だというようにお考えになるならば、それは全く真実に反することであります。戦時中、最も天皇と関わりのあった軍人でさえ、天皇を、天皇として崇めても、決して「神」として礼拝するというようなことはなかったのであります。ただ、一部の右翼の思想家達、あるいは、右翼の人々が天皇に「現人神」というような表現を適用しましたが、それをもって、日本人全部の確固たる思想であるかのように考えますと、それは、確かに迷惑至極なことだと言わなければなりません。>(『キリスト論・ドイツの旅』p116~117)※終りの方の、<決して「神」として>の「神」に「ゴット」とルビあり。
これはハンブルク大学での講演中で言われたことで、後では補足として次のように述べられています。
<古い時代の日本でも天皇に対し「神よ!」と呼びかけるようなことはもちろんありませんでした。現存の天皇を「かみ」と呼ぶ時も、「おかみ」といった呼称が示しますように、国家の「長上」といった意味のものでありました。しかし、天皇が亡くなられた時には「神」になった、「神去りました」といい、神霊的存在としてゴット(神)的性格をもつにいたったことは当然なことと存じます。明治天皇も亡くなられて後に、明治神宮に神として祭られたものでありまして、死後に神格化されるにいたったものであります。要するに、実感的には、生ける天皇は「上」的性格をもち、死せる天皇は「神」的性格をもつものとして取り扱われていたといえましょう。>(同、p128)
また、「神」と「GOD」との混同に関しては、
<日本の「神」が聖書の「神」でないこと、そして「神」と訳してならないGODを「神」と訳したことから、多くの誤解や混乱が生じたことを知ったのである。それはいまさら責めがたいことではあるが聖書の翻訳者(外国人)の責任と言えよう。しかし日本のキリスト教界に責任のないわけではない。このようなことを理解しないで「神」と「神」とを区別せずに、「現人神」や天皇の「神格否定」について、軽々しく論ずるのは真実にそむくことになる。日本のキリスト教界が、翻訳上の責めを負わず、今となって「神」をGODにしてしまって「現人神」天皇論を論難するのは正しいことではない。>(『キリスト者と天皇制』〔創文社〕p2)※「聖書の神」の「神」と、<「神」と「神」>の後の「神」に「ゴッド」とルビあり。
<日本語の「現人神」(現御神)の思想はあくまでも日本的思想であって、「神」は決してGodではない。それゆえ、もし、この「神」がGodでなければ、それを天皇や尊敬する誰に用いても、諸外国からとやかく非難される理由はない。まして戦後の日本の文化人や社会党や共産党から、そのことが天皇批判の資に利用される理由はない。また、このように日本の「神」がGodの訳として通用し、Godと思いこんでしまった人々や、日本の「神」の思想に無知なる者が外国人の言論に調子を合わせて、的はずれの議論をしているのは遺憾なことである。それは正しいことではないからである。特にこの点については、キリスト者は真実を貴んで論じなければならない。まして外国の評論家が正論を堂々と論じるのを知れば、現下の日本のキリスト教会の動きには疑念禁じがたきものがある。>(同、p94)
たしかに聖書の訳語の中で最も問題であるのが「神」だと私は思います。日本には「神」という名字の人もいるので、自分たちが信仰対象としている存在に対する呼称と他人の名前と重なるようなことは気分的にもよろしくないわけです。
ここで参考までに、津田左右吉氏の言葉を引用します。
「歴代の天皇を神として祭るといふことは、昔から皇室には無かつたことであるが、メイジ四年になつて新たに神殿(皇霊殿)を宮中に設け、列祖を祭られることになつたのは、この思想〔儒家の思想〕の形に現はれたものである。しかし祖先を神として祭るといふことは、儒者や神道者などの主張としては、一般に行ふべきことであるので、皇室に限つたことではない。従つてこれは天皇の地位が神に関係があることを示すものではない。この時に限らず、昔から天皇の地位なり権威なりを宗教的意義での神から与へられたとするやうな思想は無かつた。これは上代に神といはれたものの性質から見ても当然なのである。神といはれたものは生物なり無生物なりいろいろの霊物や形の無いさまざまの精霊であり、人格を具へてもゐず、宇宙を支配し全体としての人生を支配するほどの力をもつてもゐないから、君主の権威がさういふ神から与へられたといふことは、考へられなかつたのである。・・・・世間では日本の皇室の政治は神権政治であつたといふやうなことがいはれてもゐるらしいが、これは、日本で神といはれてゐるものの性質と、それとヨウロッパ人の神(と日本で訳せられてゐるもの)との違ひとを、よく考へずに、近代ヨウロッパで形づくられた政治学上の一つの概念をあてはめたところから出たものと解せられる。人であられた列祖を神と称するといふことなどは、今のヨウロッパの宗教思想における神の概念とは、全くかけはなれてゐることであるが、そのことがよく考へられてゐないのである。」(柳父 章著『「ゴッド」は神か上帝か』〔岩波現代文庫〕p124~125 ※「いろいろ」と「さまざま」は本文では、くの字点が用いられている。)
小田切氏は、<信長、秀吉時代の宣教師たちが「神」をさけ「天主」を用いたことは賢明であったといえよう。>とか、<「潜伏キリシタン」や「かくれキリシタン」がラテン語のDeusをそのままに用いたことは賢明であった。>と述べておられますが(『キリスト者と天皇制』p100)、訳語は普及しなければ意味がないわけです。私にとって、キリスト者が国家神道に於ける天皇問題について考える上では、日本語の「神」とキリスト教の「ゴッド」とがどう違うかなどといった問題は本質的なことではなく、また実際的なことでもありません。現実として天皇の名のもとに、その命令として多くの人々の生命が奪われたことは理屈はともあれ事実上の天皇至上・絶対主義を意味しています。言葉の定義云々といった観念の問題ではありません。大日本帝国ファシズムは国民個々人の絶対固有なる生命を、天皇の権威を用いて相対化し奪ったのです。それでも天皇は絶対化されてはいなかったなどと、どうして言えるでしょうか?聖書的にみれば偶像崇拝以外の何ものでもないのです。
小田切氏は、日本人にとっての「神」がキリスト教の「ゴッド」と違って絶対者ではないから、現人神を人間の神格化だと批判することは誤りだといった主張をされていますが、矢内原忠雄氏などはそれとは逆の見方をしています。そして私も矢内原的見解の方を支持します。それはどういうことかと言うと、本居宣長に典型的に見られる日本人的神観は、私なりの言い方で表現すれば、絶対かつ無限なるものと相対かつ有限なるものとの区別が曖昧であるところに一個人を絶対的に権威付け崇拝対象とする危険が孕んでいたということです。そしてその歴史現象として「現人神」礼拝があったことは言うまでもありません。矢内原氏は「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(「日本精神への反省」)と述べておられますが、その「神」とはキリスト者の矢内原にとっては聖書の「神」(ゴッド)以外の何ものでもありません。この絶対者を相対化するような他の絶対者などあり得ないのです。また、あってはならないのです。もっとも矢内原氏の天皇観も内村鑑三氏らと同様に時代的制約を受けており、楽観的な面もあります。しかし日本人が人を超えた真の絶対者を知らないから、そのような宗教的伝統にはないから、逆に人を絶対化しやすいという危険性の指摘はなるほどと思うのです。単に日本人の「神」は欧米人の「ゴッド」とは違って絶対者ではないから、「現人神」と言ったって信仰に於いて大した害悪ではなかった・・・みたいな意見よりは、はるかに意義深いと思います。
小田切氏は民主主義に対して次のように述べておられます。
「戦後の日本においては確かに民主主義が強要され、事実いろいろな面に民主主義的な政策が施行されてきました。それがたとえ外部からの強制によるものであっても、善いものは、あくまでも善いものとして歓迎すべきはもちろんのことであります。」(同、p115)
しかし、「日本では、戦後、民主主義が特に強力に打ち出されましたが、いつの時代においても、一つの主義というものは、行き過ぎたり、曲解されたりするものでありまして、日本の一部にも民主主義の自由の精神を放縦と思いこみ、平等の精神を無秩序と誤解するものが現われ、一時は好ましくない社会現象も見られたほどでありました。」(同、p118)と、民主主義についても批判しておられます。
以上、小田切氏の天皇観や国家観は、戦後の民主主義社会に於けるキリスト者(特に革新政党支持者の多いリベラル派のプロテスタント)に対して、祖国とは何か、愛国心とは何か、また、戦死した人々、特に兵士に対して単に哀れな犠牲者とし、その死を犬死とみなすような侮辱によらず、しかし英雄として讃美するわけでももちろんなく、どのような思いをもって見たらよいのか、そして、その受けた教育・洗脳と言える思想によってではあっても靖国神社に祀られることを願って死んでいった人が少なからずいたのだとすれば、その思いをどのような形で汲み取ることが正しいのか・・・、といった様々な問いを投げかけていると思います。それは内村鑑三氏の「二つのJ」以来の課題でもあるでしょう。小田切氏も『キリスト者と天皇制』(創文社版)の「はじめに」の中で、この「二つのJ」にふれて所信を述べておられます。
<私は日本を祖国とし、一日本人キリスト者として日本を愛し、内村鑑三先生が言い残した二つのJ――Jesus(イエス)とJapan(日本)――を愛して人の世を生き死ぬことを幸福に思っている。私が一介の町医者・キリスト者として、「キリスト論」から「神観」へと思想の遍歴を重ねたうえで、今や人生の最後の「真実」を「天皇制」に賭けるのは、キリスト者であって、日本人であることの自覚と責任からである。それはあまりに真実にそむく「天皇論」や「天皇制論」が横行していることを日本のために憂うるからである。>(p3)
ということで、その主張についての賛否はともかくとして、キリスト者としての小田切信男氏は稀有な問題提起者として日本キリスト教史にその名を残しておられるのです。(終)